はじめに:2018.3.26

水車と川の例え話。
科学者にとっての生命は川で、一般人にとっては水車。重要なのは川を知ることよりも水車の使い方を知ることである。例え生命の正体が解明できたとしてもそれが実生活に役立つことはない。

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第1〜4章:2018.3.27

トルストイによれば仏陀、孔子、老子、孟子、エピクテトス、イザヤ、キリストなどの真の教師によってすでに生命や幸福の定義は成されているという。それ以降に現れたアリストテレスやベーコン、カントなどの哲学者やパリサイ人によってその事実は覆い隠され、また都合の良いように解釈され広められてしまった。

科学者が行なっているのは影の研究である。影の本体(生命)には目もくれず、影ばかりを追い求めている。そうしてすっぽり自らも影に覆い尽くされてしまい、しまいには何も見えなくなる。

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第5〜10章:2018.3.28

人間の生活とは生まれてから死ぬまでのことというのは間違った教えである。
人は自らの指針によって行動を選択する。その指針は周りの人々から自然と教えられるもの。しかしそれが正しいことなのかは誰にも分からない。

例え間違った教えだったとしても、それが長い間受け継がれると常識になる。
仏陀の言うように疑いもせずすぐに信じてはならない。

動物的な自我によって得られた幸福はどこか物足りなく感じられ、得たかと思えばすぐにまた失われてしまう。目覚めない限りはずっとそれの繰り返しである。集まって騒いだり、性欲、食欲、自己顕示欲などをいくら満たしても心までは満たされず余計に虚しさが増すばかりである。

しかし世間で言われる幸福とは大抵これらのことを指している。
つまり、限られた人生なのだから本能のまま生きようということである。真の幸福は理性の意識を持つことで初めて得られる。理性によって動物的な自我を抑えること。そして偉大な教師たちが説いたように、煩悩を捨て他者の幸福を心から願うこと。

全てのことは理性によって定義できるが理性自体は定義できない、とヨハネは説く。

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第11〜17章:2018.3.29

動物的な自我とは本能のこと。
人生はそれだけに従って生きることではない。それではただ生存しているだけで他の動物と何ら変わらない。人間が他の動物と違うのは理性を持っているからだ。

理性が本当に働き出すと、それまでのただ本能に付き従っていた生活を俯瞰して見ることができるようになる。しかしそれによって優越感を覚えることはない。むしろ何か世間から弾かれてしまったような疎外感を覚えるものらしい。

本当は正しい方向へ向かっているにも関わらず、その見ている景色があまりにも見るに耐えないものなので思わず塞ぎ込んでしまう。そして自分の方が間違っていたと思い込み、他人と同化することを選ぶ。

動物的な自我とは手段の一つである。
理性のもとで正しく使えばより良く生きることができる。決して目的にしたり付き従ってはいけない。

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第18〜23章:2018.3.30

否定するべきは、自我ではなく自我が求める幸福。
それが自分に幸福をもたらすことはない。
他人を幸せにすること、それこそが一番の幸せ。能力や知識や経験はそのために使ってこそ初めて意味を成す。

自我と理性を越えた先に愛がある。
愛されるためにはまず愛すること。それも無条件に。家族や友人など特定の人々だけを愛するというのは本当の愛とはいえない。例え相手が愛を示してくれなかったり、幸福を願ってくれなかったとしても一向に気にしないこと。

期待をしたり見返りを求めるのは自我が抑えられていないから。
与えるばかりでも損をすることはない。むしろ与えること以上に得なことはない。誰かのために何かをしたというその事実にこそ価値がある。何を得たかはさして重要ではない。

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第24〜29章

自分を愛してくれる人を愛することは偏愛である。
キリストの説く愛とは自己犠牲の精神のこと。敵でも味方でも関係なく無条件に愛すること。自我とは好き嫌いの感情。絶えず変化している。

毎晩眠りにつくことと死ぬことに大きな違いはない。
肉体が滅びても意識は生き続ける。

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第30〜最終章:2018.4.2

痛みや苦しみは過去の過ちを償うための機会であり幸福の条件でもある。
事件や事故に巻き込まれる原因も自分にある。偶然はない。

動物的な自我に従って生き続ける限り、肉体的な痛みからは離れられない。
そしてその痛みは誰かにとっての快楽となる。その快楽も一瞬の出来事である。その束の間の快楽を得るために他人を苦しませるという不毛な努力を続ける羽目になる。結果的にはさらに大きな苦しみを感じることとなりいつまでも満たされることはない。

理性的な意識を身に付けた者には痛みや苦しみは生まれない。
全体の幸福が自分の幸福につながることを知っているため、みだりに他人を苦しめることがない。全ての物事は因果応報によって引き起こされる。