早くも金木犀の香りが漂っている。セミの鳴き声もすっかり聞こえなくなった。夏は足早に過ぎ去ろうとしている。
教室を閉じて半年が過ぎた。この間にキャンプ、日本一周、お遍路、熊野古道、移住、タイニーハウスなどなど計画を立てたものは数知れない。が、結局今の今まで何一つやっていない。新しいことをしようとするときに生じる抵抗力に全く歯が立たない。
1人で過ごすのは苦じゃないが、それがずっと続くとさすがに人恋しくもなる。でもこういう時に頼れるような友人もいないので自分と向き合い続ける他ない。
なぜ生まれたのか。
どう生きればいいのか。
そもそも私とは何か。
そういった、分かったところで何にもならないようなことを自問し続ける日々だった。救いのない鬱々とした気分。コロナがさらにそこへ追い討ちをかけた。正直何度か気が狂いそうになりかけた。いわゆる魔境にも陥りそうにもなった。
とある真理に関する本に偉く感銘を受けて、後にそれが麻原の愛読書だと知ったときにはさすがに自分が恐しくなった。自分もいつかああなってしまうのではないかと思うと気が気でなかった。毎夜眠りにつく前にそのことが頭に浮かんできてしまって、夜が来ることがもう怖くて怖くてしょうがなかった。
そのことを誰かに話せていれば少しは気も紛れたかもしれない。でも前述のようにそれは無理なことだった。そのあとマハルシやニサルガダッタの本に出会ったことでようやく救われた。
そして冷静になって麻原の生い立ちを調べてみると、彼と私では動機からして全く違うことも分かった。彼はそもそも真理なんて求めていなかった。
瞑想をすればするほど心が不安定になることがずっと疑問だった。やり方が間違っているのかもと思い色々錯誤もした。それでも全く変化がなくてそのうち瞑想自体やめてしまった。ニサルガダッタの本にもちょうどそのことが書かれていた。
それはつまり自我の抵抗によるものだという。自我は自身こそが「私」だと思っている。瞑想とはその自我を捨て去ることである。でも自我は消えたくない。だから不安にさせてやめさせようとする。そこでまんまと引っかかってしまうというからくりだ。
それを踏まえて思ったのは、抵抗を感じた時は正しい方向に進んでいるのだということ。そしてその時には自我を受け入れて安心させてあげること。
もし対立すればますます手に負えなくなってしまう。自我はわがままだが悪いやつじゃない。ただ母親の顔を忘れてしまっているだけ。
不安や恐れを深刻に捉えるとどんどん深みにはまってゆく。そうかそうかと軽く受け流すくらいでちょうどいい。だってただの幻なのだから。人生ゆるーくゆるーく。