着なくなった服を全て処分した。服装で個性を主張する必要はない。周りの意見は気にせず自分に合ったものを着る。より少なくより単純に。

4年前に作ったサイトの修正依頼があった。いくつか疑問点があったのでTさんにメールを送った。よほど忙しいのだろう。適当でと一言書かれたメールが返ってきた。

このサイトを作った4年前とはだいぶ状況が変わった。友人の視点から見ればとても嬉しいことだ。駆け出しの頃の苦労を多少なりとも知っているだけに報われて良かったと心から思う。これまできっと真摯に真面目に取り組んできたからだろう。

だからこそ、本意ではないにしても適当という言葉を彼の口から聞いたことに対して物悲しさを感じてしまった。もちろん、自分のことで手一杯なのだからいつも通り適当にやって欲しいという気持ちもよく分かる。

 

負担になってしまうぐらいなら、一旦関係を解消した方がお互いのためではないかと薄々思い始めている。

その後アカウントの整理をした。今回はかなり削除できた。インスタグラムを削除するときにふと旧友の近況を見てしまった。驚いたことにバンド&フリーター時代にお世話になったMさんが父親になっていた。皆着実に歩みを進めているのだなあと感慨深かった。

正直に言えば自己嫌悪にも陥った。ただ、今の自分の生活もこれはこれで悪くないとも思えた。自分のやるべきことをやっていれば他人を見て焦ることも羨むこともなくなるのだろう。

 

他人の成功や失敗は自分には全く何の関係もないことだ。私にあるのは今この瞬間だけだ。

昔のブログをようやく削除した。書いたのは2010年ごろ。ひととおり読んでみると、当時は本当に八方塞がりだったんだなあと思った。自分の力で行ける範囲があまりにも狭かった。

 

社会をとても遠く感じていたし、自分の考えに今よりもっと固執していたし、人間関係は希薄で、何の技術や知識も持ち合わせていなかった。想像の中の未来だけが唯一の救いだった。

思い切ってウェブデザインの学校に行ったこと、パソコン教室で働いたこと、Tさんから制作依頼をもらえたこと、あの頃特によく会っていたNやT。

 

もしこれらのうち一つでも欠けていたら、今頃きっと懲りずにまだつらつらと恨み節を書き殴る作業を続けていたに違いない。

この前も新幹線内での殺傷事件で23歳の青年が逮捕されたが、正直なところ誰にとっても全くの他人事ではない。事情が重なれば十分当事者になり得る。

 

世を恨み、将来を嘆き、可能性を諦め、他人のせいにして、自分には非がないと決め込む。そうするかしないかだけの違い。落とし穴は日常のいたるところにある。

世の中はまったく不平等だ。生まれた瞬間からすでにそう。ただし自分次第でいくらでも変えられる。人間の価値は外見、収入、学歴、肩書きだけで決まるものじゃない。

周りばかり見ていたら今この瞬間を見逃してしまうよ。