朝方、軒先から陽気な話し声が聞こえてくる。一階ってこんなに外の様子が分かるもんなんだなと驚いた。ぱっと起き上がって洗濯物を取り込みに行く。すっかり乾いていた。洗剤の残り香にうっとりとした。管理人宛ての書き置きを残してから外に出た。すでに暑い。熊野市恐るべし。

 

9時33分発の特急南紀に乗り松阪駅へ。一度改札を出てから改めて窓口で近鉄特急の乗車券を買った。待ち時間は30分。段々とT氏に会うことに緊張し始めてきているのに気付いた。色々なシミュレーションをした。でも「ふり」をするのはやめようと思った。いつも通りでいこうと決めた。その瞬間、緊張はすっと消えた。

列車はゴトンゴトンという眠りを誘う音色を奏でながら、のどかな原風景の中を突き進んでいった。遠くに人々の暮らしが見えた。山の中に峠道が見えた。壮大だったが何よりすごいのは道を切り拓いた無名の人々だ。

 

13時過ぎに大和八木駅に到着。実に6年ぶりだったがそこまで懐かしさは感じなかった。気になっていたゲストハウス「はじまり」に立ち寄るも閉まっていた。諦めてそのままT氏の事務所へ向かった。外観が目に入ってきたときに初めて懐かしさがこみ上げてきた。

 

あいにくTは不在だったが、N子がいた。イメージとは違い小柄な子だった。Tは30分後ぐらいに戻る予定らしい。14時から来客ということだったので少しだけ話してカフェの方に避難した。シェフであるTの母にもあいさつ。静かな驚きがあった。それが何だかおかしくてつい笑ってしまった。くれぐれも黙っておいてくださいねと一応釘を刺しておいた。

 

間もなくTが戻ってきた。すぐに気付かれた。どうやらシェフがにやにやとしていたようで何かあるぞと感づいたらしい。やれやれ。Tの嬉々とした表情を見てやっぱり来て良かったなと思った。Tはこれまでの空白を埋めるかのようにあれこれと話し始めた。そうそう、こういう人だったなあと朧気だったTの輪郭が次第にはっきりとし始めてくる。

 

僕が昼食を取っている間も、Tは電話や来客の対応に追われ忙しなかった。その光景を見ながら随分と違う日々を過ごしているんだなあとぼんやり思った。彼にはこの繁忙感が合っていて僕には合わないというだけの話。そこに優劣はない。

 

彼の話題は突き詰めると数字と物の二つに集約される。即ち、どれくらい稼いだか、いくらの車を買ったかといったように。日頃付き合っている人たちとはきっとそういう話で盛り上がっているのだろう。どうやらこの6年で僕とTの価値観や金銭感覚には大きなズレが生じてしまったらしい。

 

ひとまず今まで旅をしていたことや、サイトの広告収入で生活していることなども簡単に伝えた。それに近々小田原に引っ越すことも。彼は特に興味を惹かれるでもなく淡々と聞いていた。それからまた自分の話をし始めた。

 

Tが来客対応をしているとき、ふらりとN子がやってきた。話を聞くとペーパードライバーということで一気に親近感が湧いた。凛とした森林のような空気感を持った子で、そばにいると何だかとても癒された。好きな音楽や映画の話などをざっくばらんに且つぎこちなく話した。

 

気付けば17時になっていた。近くのビジネスホテル河合に電話で空室の確認をした。あの電話嫌いの自分がまさか電話をかけるなんてと内心驚いた。焦っていると人間はどんなことでもできてしまうものらしい。幸い、部屋は空いていた。

 

窓の外を見るとどんよりと薄暗い。そして雨が勢いよく降り始めてきた。さすがは雨男。思えばこの旅行中、雨が降らなかった日は一度としてなかった。宿までTの車で送ってもらうことになった。その後再びカフェに戻ってきた。Nはまだ仕事をしていた。頑張り屋さんだこと。

 

19時過ぎに3人で行きつけのバーへ。Tは話し好きというのもあるけれど、きっと沈黙が苦手なのかもしれない。ふと彼はこんな昔話をした。彼が当時の彼女と別れアパートに引っ越したばかりの頃、夜中にふらりと彼の部屋を訪ねる者がいてどうやらそれは僕だったらしい。が、全く覚えていなかった。記憶は人の数だけあるんだなと思った。


N子は家で彼氏が待っているということで途中退席。その後もTとは二人で延々と話し続け22時半ごろようやくお開きとなった。まあ話は尽きない。かつてエクセルで語り合った頃のような感覚。最後は宿まで送ってもらった。来る度に毎回甘えっぱなしだ。改めてお礼を伝えて別れた。

 

部屋に着くなりすぐ風呂に入り歯を磨きベッドに飛び込んだ。何という解放感だろう。久々の一人は蜜の味だった。メールを確認すると不動産屋から審査通過の連絡が来ていた。全てが上手い具合に動いてくれている。

 

さて、明日はいよいよ帰宅の日。旅に出る前は恐怖と不安しかなかったけれど、あのまま旅に出ていなかったらとしたらそれもそれで恐ろしい話だ。今となってはやっぱり旅に出てよかったと思える。いざ旅に出てしまえば案外どうにかなるもんだ。だからこそ思う、考えすぎは良くないと。

 

たくさんの出会いがあった。その地に生きる人々の暮らしがあった。圧倒的な自然があった。僕を悩ませるものは何一つなかった。もう大丈夫。隣室からのいびきは収まる気配がないが、ひとまず今夜はゆっくり眠ろう。