どうせ死ぬのになんでわざわざこんなことやってるんだろう。などと時々考えることがある。こうなるともうエロゲーでさえ楽しめなくなる。

 

ヴィパッサナーと慈悲の瞑想をしばらく続けているものの心は一向に落ち着かない。もしかしたら何か大事なことを見落としているのかもしれない。疑心は募るばかりだった。

 

加藤諦三氏の「自分を活かす心理学」という本に出会ったのはそんなときだった。僕が軽蔑していたのは自分自身だった。そしてそれを他人に移し替えていた。そのことにようやく気付くことができた。

 

30歳を過ぎたころから、どうにも他人の容姿が気になるようになった。醜い人を見れば心の中で蔑んで安堵し、優れた人を見れば気圧されて脅威する。そのたびに自分はなんて性格が悪いのだろうと自己嫌悪にも陥った。

 

正直に言うと、僕は自分の容姿に少なからず自信を持っていた。と、過去形で書いてはみたがきっと今でも多少は持っているに違いない。ただ前ほど意識に上がらなくなっただけで。

 

実際、10代後半から20代前半まではよくモテた。幸か不幸か、この経験が僕に前述の「大いなる勘違い」をもたらすことになった。一方的にチヤホヤされるものだから、人間関係における努力というものを一切してこなかった。

 

20代後半になってがらりと状況が一変した。というよりも確変が終わって通常に戻っただけのことだ。でも僕はどうにもそれが受け入れられず、もう一度チヤホヤされたいと願った。

 

そのためには他人を凌駕するような何か特別なものを持っていないといけない。そう考えた当時の僕がたどり着いたものこそ哲学であり、形而上学であり、聖書であり、精神世界であり、原始仏教だった。

 

だが動機が不純である以上いくら読んでも身になることはなく、そのくせプライドだけはますます強化され一層孤立を深めていった。と、過去形で書いてはみたがこれもいまだ継続中に違いない。ただ当時よりはだいぶ弱くなっただけで。

 

これがヴィパッサナーと慈悲の瞑想において、何か大事なものを見落としているものの正体。

 

次に人の容姿が気になるのはどういうわけか自分に考えてみた。流れを追うとこのような感じになる。

 

他人を凌駕しようとして結果、孤立を深める。相変わらず自分の容姿には多少なりとも自信を持っている。でも誰もそのことに関心を向けてくれない。悔しい。自分の価値が徐々に失われてゆくような感覚。その価値を保つためには他人を貶めるしかない。

 

要するに他人は一切関係ない。原因はすべて自分にある。自分の価値を決めるのはあくまで自分。自分がそれを低く見積もり続ける限り、他人からの関心もまるで無意味。

 

とにかく、自分をいじめるのはもうたくさんだ。虚勢を張るのも、あるべき自分を演じるのももうやめる。気が小さくて、素直じゃなくて、わがままで、飽きっぽい。そんな自分をちゃんと受け入れて活かしてみよう。