仏陀に始まり、聖書、ギリシア神話、ヘラクレイトス、ソクラテス、プラトン、ソフォクレス、セネカ、老子、ユング、ゲーテ、ショーペンハウアー、カタカムナ、鴨長明、兼好法師、小林正観、足立幸子、アチャン・チャー、ニサルガダッタ、ラマナ、ババジ、クリシュナムルティ、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ、ヴァガヴァッド・ギーター、ヨーガ・ヴァーシシュタなど思いつくまま手当たり次第に読み漁ってきた。きっと何かがあるはずだと信じて。
去年ニサルガダッタを読んだとき、ある大きな懸念が自分の中に芽生えた。つまりこういうことだ。
全ての行為が神によって行われ個人には何の責任もないとするならば、仮に僕が誰かを殺したとしても、それは僕がやったことにはならないし何の罪にも問われないのではないか?だとしたらどうして僕は人を殺してはいけないのか?
自分で書いていても本当にぞっとするが、彼の本を読みながら実際にそう思ってしまったことは紛れもない事実。でも読み方次第ではこんな風に殺人を肯定しているようにも読めてしまう。
読み進めていけばそのうちきっとその懸念に対する答えも見つかるだろうと思っていた。でも結局最後まで見つけられなかった。
ひょっとして自分は何かとてつもなくやばいところへ足を踏み込んでしまっているのではないか、という底無しの恐怖に襲われて咄嗟に彼の本を放り捨てた。その後もしばらく気分は晴れなかった。いわゆる魔境に陥りかけていた。
それから一年が経った。今日ラメッシを読んでようやく僕はそれに対する答えを見つけた。ラメッシの答えはずばりこうだった。
どうして「自分」は人々を殺してはいけないのか?とあなたが言っていることが、またしても根本的な誤解だということです。だって、実際には、どんなことをする「あなた」も存在しないからです。
そのものズバリの回答に僕は心から安心した。こうして僕の探求はようやく終わりを告げた。いや、正確に言えば始まってさえもいなかったのだけれど。
一年前に書いた日記を見て思わず笑った。
全てはもうあらかじめ書かれてあった。