朝からラメッシの続きを読む。昨日探求は終わったと書いた。それなのになぜまだ読む必要があるのか。理由はない。ただ起こっただけ。
以下はメモ。
存在するものすべては意識。ただ意識だけが在る。この意識とは神とか真我とかブラフマンとも呼ばれる。ゆえに全てはつながっていると言われる。
映画で例えると、監督・脚本・演出・主演・助演・撮影・編集・配給を全て一人でこなしているようなもの。人間は意識を分け与えられた操り人形に過ぎない。
注目を集める人がいる一方で孤独の人もいる。富豪もいれば乞食もいる。その原因や責任は個々人にはない。そうなる運命だった。唯一できることはその与えられた役を淡々とこなすことだけ。
では操り人形でありながら配役に不満を言ったり自分を特別視してしまうのはなぜか。それは自我(エゴ)があるから。自我とは何か。分け与えられた意識そのもの。またはその反映とも言う。ゆえに自我を殺すことはできない。ただ受け入れて放っておくこと。
何が起こるかはあらかじめ運命によって決められている。行動は選べるが結果は選べない。といってもその行動も自ら選んでいるように見えるだけで、実際にはただ起こったに過ぎない。
たとえば誰かに告白をして振られたとする。言葉を変えても時期を遅らせても結果は同じ。当然その逆もある。その場合、何を言ってもいつ言っても必ず成功する。
諦めなければいつか叶うと信じる人もいる。運命は自ら切り開くものだとやっきになる人もいる。それも間違っていない。そう考える人々が一定数いることもあらかじめ決められている。
誰かのようになろうとしたり何かを得ようとしたりするところから不幸が始まる。今あるもので満足すること。過去や未来に惑わされず今この時にあること。
今まで書いたことはすべて観念でしかない。理解が起こったならもはや何の価値もない。誰も探究しないし悟ることもない。