きっと言葉にすることはできない。それでも書き残しておく必要があると直感的に思った。
結論から言えば、何にもなかった。ずっとずっと追い続けてきた末にようやくそのことを知った。そして知った瞬間にはもう知ったという事実さえもなくなった。知ることも知る者もいない。ここにはまったく何もない。
日常で起こる全ての出来事と自分の行動に絶えず気付いていること。真理を知るにはただそれだけで十分だった。旅に出ることも誰かに師事する必要もなかった。
全ての概念と観念と想念を超えたとき、そこにはもはや真理さえもない。ゆえに真理を知ったとか悟ったという言葉は意味を成さない。それはまるで手のひらに溜めた水のようなもの。持った瞬間に流れ落ちてゆく。
真理は確かにある。でもそれを知る人は誰もいない。言葉にすればたったこれだけのこと。正確には、言葉にはこれだけのことしか言えない。
目で見たものは脳に届く。脳で理解したことは知識になる。それが概念になる。言葉によって真理を知ろうとする人は、その行動によって真理から遠ざかっていたことにやがて気付く。つまり知識とは真理に関する新たな概念を授けてくれる機会でしかない。
やるべきことはたった一つ。
自らを知ること。
私たちは生まれた時からすでに完璧だった。それなのに他人との比較や競争、環境によっていつの間にかそのことを忘れてしまった。
完璧になるために新しく何かを得る必要はない。最初から全て揃っている。あとはそのことを思い出すだけ。
背中に書かれた文字を読むには鏡が必要なように、自己を知るにはこの世界が必要。そして鏡自体には何も書かれていないように、この世界自体には何も存在しない。他人もいない。ただそれだけが在る。
だから他人に対するその批判や不満は全て自分に対してのもの。他人を攻撃するということは自分自身を傷つけることに他ならない。
全てはつながっている。