実家に帰省してから多くの人と出会い話をした。彼らの間をぷかぷかと漂ううちにだんだんと自分という存在が不確かなものに思えてきた。

 

僕は何なのだろう。とはいえインド哲学にどっぷり浸かっていたあの頃のような深刻さは全くない。あくまで気軽にそう思っただけ。探究はもうしない。概念も集めないし主義にも偏らないし自然にこだわることもない。ありのまま、あるがまま、わがままに。

 

一年前の選択が少しずつ疑念に変わりつつあるのは確かだ。無意識に閉じ込めていたものたちが勢いよく飛び出してきたような。実家に帰る前、柄にもなくタロット占いと数秘術をしてもらった。とてつもなく強いパワーを秘めた人だと言われた。それにとことんやっちまえと。

 

もしかしたら自分はもっと色々とやりたいのかもしれない。もちろん熊野で得た暮らしもそのうちの一つ。ただそれは言ってしまえば、いつでもできること。

 

僕が本当にやりたいことはたぶん、この歳でしかできないことなんだと思う。もしそれをやらなかったらこの先また「あの時ああしておけば」と後悔する日が来ると容易に想像できるから。そう、ちょうど今のように。

 

反面、どこかでもう若くはないと思ってしまっている自分もいる。諦めるにふさわしい理由が欲しいだけなんだってこともよく理解している。でもどうしてもよぎってしまう。あそこではない場所での暮らしが。それは定められたどこかではなく、つまりは旅をしながら暮らしたいということ。

 

様々なものに組み込まれた彼らを見ていると、僕は自分を持て余していることに嫌でも気付かされる。勇気一つさえあれば何だってできるのに、そのたった一つが足りないがために全てを諦めてしまっている。

 

本当は何がしたい?どこを歩きたい?誰と話したい?何を恐れている?のらりくらり生きたってこれまでどうにかなってきたんだから、別に今さら何かを恐れる必要もないのに。海外に行くにはパスポートを取ってチケットを買えばいいだけ。とっても簡単な話だ。難しくしているのはそう、いつだって自分。